珈琲ブレイク (8)

師匠:君のナイチンゲールの論文の「真理」て、一言で言うとどうなるの?!

弟子:4年かかって、200枚で書いたことをですか?

師匠:そうです。

弟子:・・・・<いつもながら、いきなり大きくきたー>
   Oneですから・・・
   「私・人間」は「神」、師匠の言葉でしたら「いのちの働き」の場の中にあり
   「神」「いのちの働き」は、「私・人間」の中で働くってこと・・・

 

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師匠:突然ですがねー
弟子:結構、いつも突然ですが・・・・

師匠:あらたうと 青葉若葉の 日の光  

   これもナイチンゲールだよね

弟子:えっ! 芭蕉ですが ナイチンゲールと何か・・・ <唐突すぎて・・・・>

   <青葉若葉>というのは、若葉が夏の日を浴び、成長して青葉に変わるころ・・・
   梅雨の前の話ですね。

師匠:そうだよね。
   では、「日の光」は?

弟子:太陽の光だと

師匠:そう太陽の光、「生命の源」ですね。「いのちの働き」を表しているんだろうね。    じゃぁ、「青葉若葉の」の「の」は、なんですかねー

弟子:・・・・・・「の」は「の」・・・助詞・・・所有の・・・うぅ・・・

師匠:八木誠一さんは、青葉若葉の 日の光 と言うとき、「の」は

   ① 青葉若葉がその営みとして、日の光を照り返す

   ② 青葉若葉として表れている日の光・・・日光が青葉若葉として現れている

   この①②の、両方の意味として読めると言っているね。

   つまり、①の 青葉若葉が日の光を照り返している「光」、
   そして、その光は ②として
   「生命の源」「いのちの働き」であり、言い換えれば「神のはたらき」を
    現していると感じているんだね。
    だから「あらとうと」=「あら尊と」

弟子:句全体は、師匠のおっしゃる
   「いのちの営みの いのちの働き」のようですが・・・

師匠:そうだね

   青葉若葉の営みは、<いのちの営み>
   日の光は、<いのちの働き>

   輝く青葉若葉の「輝き」= 太陽が青葉若葉を通して「輝く」

  つまり、青葉若葉の「輝き」と、太陽の「輝く」は、同じ働き。
  言い換えれば、八木誠一言語の「作用的一」だね。

弟子:はぁー  ちょっと、ナイチンゲールと芭蕉の共通点が見えてきました。

 

師匠:風景としての「輝く青葉若葉」という客観的事実が、
   そのまま、人間の内面性の表現でもあると言うことだね。
   この句に表現されている経験は、
   「私がいて、その私が青葉若葉が反射する光を見たからきれいだと感じた」と
   いうような観念的世界の経験ではなく
   身体の直接的感覚、言語で世界を分節して捉える以前の感覚。
   いのちの働きとしての光と世界が「はたらきとして一」という自覚の表現、
   八木誠一言語の「直接経験」の表現として読めるね。

弟子:「はたらきとして一」、すなわち、ナイチンゲールのOneか、なるほど。

    「青葉若葉の営み」 を W
           「 日の光の働き」 を R

        で、記号化すれば

   青葉若葉の 日の光

   青葉若葉は,輝く青葉若葉であり、W in  R

          日の光は青葉若葉として輝き  R in W

   青葉若葉の営みが、光のはたらきを 示現 しているのですね。

師匠:ナイチンゲールは、言葉によって対象化されたところからOne
   語っているのではなく、
   言葉以前の感覚を言葉にして語っているんだと思うね。

弟子:ナイチンゲールの「直接経験」の表現として捉えなければ、
   捉え損なってしまうわけですね。
   「直接経験」の自覚が決定的問題ですね。
   しかし、それは難しいですね。
   ナイチンゲールはその感覚を、コモンセンスと言いました。
   「統合感覚経験」と言ってもいいのでしょうが ・・・

   わからないなー 難しい・・・

師匠:本当は、簡単なことなんだが、言葉が難しくするんだねー。

弟子: 光が青葉若葉を生きている

  「青葉若葉の営み の 日の光」 W in  R 

  「日の光 の 青葉若葉の営み」 R in W

    人間の生きる経験としてなら

      「人間のいのちの営み」を M

  「いのちの働き」を  G

      「人間のいのちの営み の いのちの働き」M in  G

       「いのちの働き の 人間のいのちの営み」 G in M

   いのちの働きが私を生きている

    病でそれを実感しました!

 

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