看護を担う人間(私)の<いのちの営み>

科目終了試験   生命倫理     平成23年8月29日

        看護を担う人間(私)の<いのちの営み>

                     善通寺看護学校   篠原 奈々恵

 私は、生命倫理の講義を受けて、看護を担う人間の「いのちの営み」や「いのちの働き」に興味を持った。
 まず初めに、八木先生に(いのちの働き)に「生かされて」わたしは「生きる」ということが「いのちの営み」であるということを学んだ。
つまり、私が「生死」することは、「いのちの働きのいのちの営み」であるということである。
私は、風の中を走るヨットの例で、このことを理解出来たと同時に、「なるほど」と感じた。私はわたしの「いのちの働き」によって生かされている。
人間が生きるということは、知らず知らずの間に、意識しないで、いのちの働きを自ら行っているのだと思った。そして私は、初めて意識することが出来た。

そう考えると、今まで生きてきた20年間、私は無意識に「いのちの働き」によって、「いのちの営み」を行ってきたのだと思い、Lifeの概念が広がったように感じた。
私がここで「無意識の間に」と表現を使用した理由は、八木先生の1回目の講義で、
「どうやって生きるの?」なぜ「呼吸するの」「なぜ栄養を取るの?」
「呼吸をするとどうなるの?」など、私が生きるために行わなければならない行為を深く考えずに行っていたからである。

 次に、看護を担う人間の場合であるが、八木先生と本田先生の講義や本田先生が書いた論文を読んで、すごく興味・関心を持った。
 私は看護を担う人間の一人として、どうあるべきかということをすごく考えるきっかけになった。
 本田先生は、人間の「いのちの営み」の範囲を超える看護を「患者と同じ空気を呼吸することで感じる、看護の担い手の<いのとの営み>の感覚が、同時に患者の生きる感覚へ投影されることが、人を看護の担い手とするのだ。
それは、身体としての人間の<いのちの営み>の<自然本来の身体としての直接的感覚>が、看護を看護として成り立たせる根本になるということのヒントである。」と述べている。
看護というものは、人間の「いのちの営み」の範囲を超えた行為であるが、実はその「いのちの営み」の範囲を超えた部分というものが、看護にとってとても重要になるということが分かった。
その「いのちの営み」の範囲を超えた部分というのは、機械的に働きかけるのではなく、人間らしい温かみのある「想い」の詰まった行為であるということを考え、看護の素晴らしさや奥深さを改めて感じることが出来た。
 また、看護というものは、人間対人間によって成り立つものである。
その場合の「いのちの働きの場」というものには、神の働きによて実現するということを、講義で学んだ。
「いのちの働き」が「人と人」としての「いのちの営み」であるということも学んだ。
つまり、そこには「愛」としての関係が実現するということである。
本田先生は、「ナイチンゲールは私たちの持っている愛(看護もこの愛の一つでる)と述べている」ということを述べている。
人間としての「いのちの営み」が単なる人間の営みとしてではなく、それを超えた神秘的な奇跡の出来事であるのだということを感じることが出来た。
つまり、看護というものは「人間対人間」の言葉では言い表せないような、本当に素晴らしいものであるということを、改めて考えた。

 私は、あと約7カ月で看護師として働くことになる。
哲学や生命倫理で八木先生に学んだこと、本田先生に学んだことを胸に、<看護>というものの在り方、看護を担う人間の在り方を考えていきたいと考えた。

四学チャペル

四国学院大学チャペル

 善通寺看護学校の生命倫理の授業は、八木洋一先生(四国学院大学大学院教授)が担当している。その生命倫理の授業の最後の日、私は「ナイチンゲールにおける看護思想」についてお話をさせて頂きました。
その講義の試験で、感動的な答案に出会いました。
私が、4年間、四苦八苦して見つけた内容を、さらりと(そう簡単ではないと思うけれど)
書いているではありませんか。

素晴らしく感性がいいなぁ~と、感心しましたので、
ご本人の了承を得て、紹介させていただきました。
篠原 奈々恵さん、本当にありがとうございます。

おかげで、クリスマスイブにぴったりのブログになりました。

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