身体は「場所的」

高松市歯科医師会主催「在宅訪問歯科衛生士養成講座」
受講生の歯科衛生士さんが、施設訪問見学実習として、
特別養護老人ホーム サマリヤでの私の仕事に同行されました。

<施設での口腔ケア>と一口に言っても、利用者さんによっても異なりますが、
施設によってこちらの対応も様々です。
一つの施設だけではなく、いくつかの見学ができると、
今後の活動の参考になるだろうと思います。

それは、人間の存在が「場所的」だということです。
例えば今私が住んでいる「ここ」という「場所」を表す、
住所について考えてみましょう。

日本・四国・香川県・仲多度郡・満濃町・七箇・何番地と書き表します。
つまり、<ここ>という場所は、いくつもの場所が層となり、
重なり合って成り立っているのです。

単に重なり合っているのではなく、相互作用的に重なっています。
場所としての私の住所は、七箇地区の作用に影響されますが、
私の家も、七箇地区へ作用している。
何処までも無限に重層的であると言えます。

一筋縄ではなりゆかない政治経済問題を考えても、納得できると思います。
国際問題から見れば大河の一滴であるような私の生活も、その影響を受けています。

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人間の身体自身が、そもそも、「場所的」です。
身体としての<のいのちの営み>全体と、
一つの細胞・組織・器官の関係もそのようなあり方をしています。
身体としての<のいのちの営み>全体は、
相互作用(コミュニケーション)としての「場所」と言えますね。

「口腔」を捉えようとするならば、全身の状態を無視しては成り立たないように、
施設の在り方も、関係しているという事です。

そのような<いのちの営み>としての身体を捉える感覚を、<統合感覚>と呼びます。
その感覚を働かせて、ケアすることが重要です。
言い換えれば、<統合感覚>のことを<コミュニケーション感覚>と呼ぶこともできます。

このような<いのちの感覚>が連綿と続いているからこそ、生命が亡びることなく、
<今・ここ>に私が存在している。

この感覚についての興味深い記述を、
次回『ゲシュタルトクライシス』の冒頭から紹介します。

 

 

 

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