上田閑照先生のご冥福をお祈り申し上げます

西田幾多郎に始まる「京都学派」の系譜を継ぐ宗教哲学者の、京都大名誉教授の上田閑照先生が亡くなられた。93歳。

四国学院大学で、講演を拝聴し、食事をご一緒したことがあります。
ゆるぎない厳しさと深い優しさを醸し出されるお人柄に、
「風格」のある人とは、こういう方のことを言うのだと感銘を受けました。

私が全集を買ったのは、上田先生のご著書だけです。

岩波書店から出版された八木誠一先生との対談評釈は、禅の語録と新約聖書,道元とパウロとを交差させながら、現代において理解しがたくなった「人間とは何か」という問いについて、私たちに深い洞察を示して下さっていると思う。先生を偲び、再読したいと思います。

この本は、現代の心と文化の危機を語る言葉を探す.禅の語録と新約聖書,道元とパウロとを交差させる解釈の探検!!

以下:教育基本法資料室へようこそ!文部科学省ホームページより

上田閑照氏(京都大学名誉教授)の意見陳述の概要(中央教育審議会第17回基本問題部会(平成14年12月9日)より)

・ 本日は、教育とは何か、人間として生きるとはどういうことか、宗教に関する教育についてどのように考えているかについて意見を陳述したい。

・  人間が人間であるためには教育という営み、つまり、人間として養い、育てられる必要があるし、人間として学ばなければならない。それを欠くと、人間的であるとは言えなくなる。

・人間は生まれ…る前からあらゆるものの影響の下に成長する。人間は様々なものの影響を受けて成長するという独特の営みをするが、その段階からどんな人間にならねばならないかについても考えられることが必要。

・人間の意識には「我」がある。それは人の優位性を示すとともに、人間が自分勝手という方向に流れる可能性をはらむものである。その勝手をどのように制御できるか。それができて初めて、自由な自立性が成立しうる。

・ 現代は、生きるのが難しい条件がある。それは人間自身が作ったものだが、生活文明そのものが非人間的な性格をもつからである。例えばセロテープの発達は「破る」文化を定着させたし、電車に乗ってウォークマンで耳をふさぐことは周囲への配慮の欠如を招いた。そういうふうに人が育てられてしまう環境が整っている。どう対処すべきかしっかり考えて教育に取り組まないといけない。

・母親による子殺しの事件が珍しくなくなりつつあるのは、腹を痛めて産んだから自ずと愛情が湧くというものではなくなっていることを示している。共通した母親像をはぐくみ、それを自らも共有するという営みがないと、これまで自然に思えていたことももはや自然なことではなくなってしまう。

・人間であることがすなわち人間的であることではなくなっているが、「こうあるべき」という像がはっきりしていないと、教育の実践ができない。

・人間として本当に生きるとはどういうことか考えることが重要である。自分が「本当に生きる」ことを強調するのは、人間とはおかしくなりがちで、多くは歪んだ姿になって初めて、自分のあるべき姿に目覚めるものだからである。

・人間を特徴付けるのは、「直立すること」と「言葉を使う」ことである。言葉については、相互の意思伝達だけならば動物も行っていることが研究で明らかになっているが、「我」という概念は人しか使うことができない。

・人間は、直立することで自由になった手を使って採集し、加工し、文明を構築してきた。これは従来、人間の最も優れた在り方だったが、手が道具になり、機械になる中で、20世紀後半には人間自らの「必要」というところを超え、「できること」を探求するようになってきている。

・直立することは同時に、自分より高いものへのセンス、自分を支えるものへのセンスをはぐくみ、ひいては自分の力を超越するもの、大地への畏敬のセンスをはぐくむことにつながっていく。言うなれば、これは宗教的なバックボーンである。しかし、現在、人間は自分の周囲のものを何でも構築できるようになっていて、それが畏怖の念の喪失を招いている。

・人間として生きることにはいくつかの段階がある。それは、「人生」「歴史的社会的生」「境涯」である。このうち「境涯」とは、人間の生死全体を含めて、どのような受け止め方をしながら生きていくかに関わることである。最近はこれに加え、自然環境の破壊が進んでいることから、その視点も大事である。従って、「境涯」の前に「生命」というものを置きたい。「生命」は人間が生きるための基盤であり、「生」すなわち「人生」や「生活(歴史的社会的生)」を含むものが定義されると考えている。

・「人生」と「生活」は人間として生きていく上でいちばんの手がかりになるが、両者には質的な違いがある。すなわち、「生活」は質的に豊かであることが必要だが、「人生」はたとえ金銭的に貧しくてもいいかまわないと率直に述べられる側面があり、極端にいうと、「衣食住は三悪道」とさえ捉えられる。

・「命」という問題は、「死」の問題に触れて初めて実感できるものである。ここまで挙げてきた「生命」と「生」と「命」の連関の中で生きることこそが、「人間として生きる」ということに他ならない。しかし、今、生活が非常に肥大しており、人生を圧迫している状況にある。

・ 世界には厳しい暮らしを強いられる人も多くおり、様々な争いも苛烈を極めているが、彼らを助けようとする活動の多くが、けっきょくは自分たちのためのものになっているという現状がある。

・  問題は、いかに自我を抑制するかということ、そして、どこまでも破壊が進みかねない事態に対してどれだけチェックを働かせるかであり、これらの問題をどこかではっきり認識し、正しく対応する必要がある。

・宗教を考えるに当たっては、歴史的現実としての既成宗教から出発するのではなく、人間の真実とは何かから出発することが必要。人間としての在り方の中に、宗教を生み出す所以のようなものがある。ものを大切にし、人に親切にするということで、人間の在り方の真実は言い尽くされていると考える。逆に、それらの感情がなくなったときに人間はどうなるかという認識が切実になれば、それで十分だとも言えると思う。

・今、既成宗教も問題に直面している。各宗教とも、自らの信じるものの相対化ができないため、自らの世界観の中では絶対であるはずの宗教が他の人にとっては最良ではない場合に、衝突を引き起こしてしまう。

・宗教どうしの出会いは、宗教の発展そのものが招くのではなく、宗教とは直接に関係のないはずの科学技術の発達等により起こる。このことも大きな問題。

・本当に人として生きるとは何か。そのことを自覚し直すことが必要である。ものを大切に、人に親切にということを、どうやって実現していくか、それを考え、感じることが大切である。

・漱石の言葉に「自己本位」すなわち自立ということと、「則天去私」というものがあるが、この両方が結び付く在り方が本当の人間の在り方である。また、「死は生より尊い」ことを分かって生きることで生き方が変わり、それを通じて他者やものとの関わりも変わっていくと考える。

・宗教は猛烈な危険性をはらむものである。それは、宗教そのものが危険というのではなく、人間の持つ危険性が宗教によって現れてくるからである。宗教とは本来目に見えないものとの関わりが基礎にあるが、信仰上の必要に迫られてそれを可視化する必要が生じることがある。そのことにより強い思いこみが発生し、人間を縛る可能性があるためである。大切なのは「本当に人間として生きる」とはどういうことかを具体的に、深く問題にし、自覚することである。

・宗教と教育について、両者には結びつきがあるが、両者を結ぶには難しいことも多い。アプローチとしては、歴史的な既成宗教についての十分な知識を与えることがまず必要だ。それを学ぶ場としては家庭科でも地理でも歴史でもいいと考えるが、それはいずれにせよ「宗教教育」とは言い難いのではないか。なぜなら、宗教教育とは人間の真実、すなわち、人はどう生き、どう死ぬべきかであるかについて教えることであると考えるからだ。

・宗教教育と従来の道徳には近いものもあるが質の違いがあると考える。道徳とは、自分で自分の人格を改めていくことを通じて、本当の人間になれるという営みをさす。課せられた義務を果たせるか果たせないかという分け方が基本にあり、そこでは自分の力というものが信じられている世界である。それゆえ、いずれ自分の力の限界という壁に突き当たらざるを得ないものである。一方、宗教の世界では生きていることそのものを根本悪ととらえ、自分が生きるとはどういうことかについて、もっと深いところから問題にするものである。

・よって、道徳教育とは別個に宗教に関する教育が考えられねばならないが、「宗教」を表に出すことにも問題が多い。みんなが同様に宗教的情操に納得するとは限らないし、宗教の多様性、すなわち複数の宗派の存在も難しい問題を惹起するものであるからだ。

・宗教教育においては、人間の経験の中で与えられる人間としての真実をはっきり伝達することが必要だが、その営みはそれを教える人(=現場の教員)自身の人間性が問われる話である。一方で、それを教わる生徒は、社会に存在するあらゆる条件から影響を受けるため、そういう教育が届かないこともあり得る。家庭教育から始めて、長いスパンで考えることが必要な問題である。

【質疑応答】
委員)
  現在の経済社会、産業社会など大人の社会が非人間的性格をもつものになりつつある中で、養育の場で子どもたちに人間的性格をもたせるのは難しいのではないか。子どもの問題も、子どもがいけないのではなく、社会が非人間的性格をもっているがためのことと考えるが、どうか。
上田教授)
   決して子どもが悪いわけではなく、子どもが育つ条件、つまり、社会が成立するその水面に非人間化する性格があるということだと考える。社会については行き着くところまでいったときにカタストロフして変わると思う。しかし、個人のレベルはともかく、社会が一瞬のうちにつながる時代においては、劇的な変容はむしろ不可能である。これよりも、社会の中に生きる個人や、個と個の響きあいから成立する共同体についてより強く努力を向けていくべき。阪神大震災を経験した罹災者の一人が「震災を経験して物欲がなくなった」と語ったのを聞いて感銘を受けたことがある。そして、これこそ人間の真実だと思う反面、急速度で復興する中に取り残される罹災者もいて、そこに大きな歪みが生じていると思う。そのことをきっかけにして、生き方について考えてみるのも、宗教教育というならば宗教教育だと考える。
委員)
   例えば中高生に大岡裁きの「三方一両損」の話をすることがあるが、これは道徳の範疇なのか、それとも宗教の範疇なのか。
上田教授)
   これは道徳教育か宗教教育かと考える必要はないと考える。「三方一両損」は大岡越前がこのケースに用いた解決法というだけで、これが唯一の解決手段ではない。ただ、この場合は真実の追究を動機として知恵を働かせた事例であるので、道徳教育とは言えないかもしれない。宗教教育の教え方については、なかなか自分が「本当の人間」であることは難しいので、これが本当だと自分に思える人の例を伝え、それを生徒といっしょに学ぶという姿勢が大事であると考える。
会長)
   人間としてどう生きるか、それをどのように教えるべきか、宗教の複数性から来る問題や、見えないものを可視化することの危険性、知識だけでは宗教教育として不十分だが、人間が狂っている現在、何かやらないといけないという思いについて発表をいただいたと考えている。
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