「回心 イエスが見つけた泉へ」読書会

師:私は最近体調がよくないね。特に朝、手に力が入らない。

弟子:そうですか、スカッとしないですね。
リンパが滞る感じでしょうか。

師:そうだね・・・。
健康と病気はどういうことかね?

弟子:WHOの概念では、身体的、精神的、社会的に良好な状態ですが・・・
自分自身のことを振り返っても物心ついた時から重症アレルギーで、
全く健康だったことはないし。
かと言って、健康でないとも言えない・・・

完全な健康って、幻想だと思うな。

師:両者の関係はどうなっている?

弟子:うーーーーーん
健康の中にも常に病気って含んでいるし
病気の中にも健康が含まれているし・・・

ナイチンゲールは、すべての病気は回復の過程と考えていたのですが、
その感じは私にはなじみます。

師:対立しつつ含みあう関係だと思うね。
生と死もそうだね。

弟子:誰もが気づくと気づかないとは別に、やんでいると事ってありますよね。
そこで、健康を考えるとは幻想に向かって歩むという事でしょうか。

師:<微笑>
私の師匠、八木誠一先生の『回心 イエスが見つけた泉へ』を読みましょう。

これは人間の主体の交替、つまりどうしたら人間は悟れるかについて書かれたものです。
キリスト教では、回心とというんだね。

弟子:悟りは禅僧のように並々ならぬ努力をしたり、
クリスチャンならミサに預かったり、救済の物語を信じ洗礼を受けた人に起こる。
もしくは、正命を唱える人。
私にはどれもなじみません。

師:慌てずに、読みましょう。第4章1です。

本章では先立つ諸章をまとめながら、「主体の交替」すなわち回心について述べておきたい。「まとめ」という性質上、すでに述べたことを繰り返しさらに展開する場合があることをあらかじめお許しいただきたい。実は本来ならば、本章では「どうしたら主体の交替が起こるか」を述べるべきなのだが、思うに「こうすれば必ず主体の交替が生起する」という方法は存在しない。それは統合体には必然的因果関係が妥当しないからである。こうすれば、必ずもろもろの病気も治り、健康も維持できるという方法がないのと同じことだ。しかし、だからと言って健康のために何もできないことはないし、そもそも健康とはいかなる状態かを知ることは健康維持の上に無益ではあるまい。本章はそういう意味で、「主体の交替」について述べることになる。

 

師:単なる自我の迷いからの悟るとは、悟りとは「統合」「直接経験」のことだと
誠一先生は語り続けてきました。キリスト教では、この作用変換を聖霊の働きと
言っています。

弟子:言葉が難しいですが、
ナイチンゲールは健康を統合と考えていたような気がします。
ということは、悟りとは看護の出来事が立ち上がる地平ですね。

師:嘘のないことが悟りと言ってもいい。

弟子:単にマニュアルに従ってケアをするのではなく、
目の前に人の必要(ニーズ)に促されて自然にケアしてしまう。
それが、私が仕事で感じる「直接経験」なのですが・・・

そう自分で思っていても、単なる自我がそう思い込んでいるのかもしれないという
不安はあります。なんせ、私の単なる自我は根が深い<苦笑>

師:今から、そういうことを勉強していきましょう。

弟子:先生の愛犬レナちゃんや、我が家のリリちゃんは嘘がないです。孫の悠くんも。

師:ヒントにはなるね。

弟子:歯科衛生士の仕事は、健康(=統合)を考えることなしには成り立たないので、
仕事することが修行になるような気がします。

仕事が悟りの実践にならなければ、本当のケアではないと言えるでしょうね。きっと。
ケアとは、統合の回復を支援することですから。

 

<読書会のご案内>

興味にある方、ご連絡ください。
月2回、土曜の午後八木洋一先生指導のもと開催します。
クリスチャン向けというものではありません。

八木誠一著『 回心 イエスが見つけた泉へ』ぷねうま舎
 2016年 246頁  2700円 

 回心とは何か。宗教の根源にひそむものへ、独自の思考の道を切り開いた宗教哲学者が、   渾身の力で書下した21世紀への遺書。

■ 何かが決定的に更新されること、堅固と思われていた自我の基盤がくつがえること、
  その実態とはどんなもので、この現実とそれはいかにかかわるのか。

  主体の交替、フロント構造、統合……自ら編み出した概念の枠組みを駆使して、
  根本的な転換と覚醒の実像に迫り、その光をもってこの世界のありうべき未来を
  照らし出す。

  イエスが指さした泉、それは宗教・宗派を問わず、誰にでも開かれている。

 

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