いのちの感覚=統合感覚

2016年3月21日
身体「作用の場所的」だと書きました。
これは、<いのちの営み>は「作用の場所的」とも言えます。

もう少し綿密に、「作用の場所=身体=いのちの営み」が成り立つとは、
そのような<場所>を成り立たせる<働き>が実現したものが<場所>だと言い表せます。

<働き>そのものを「場」と呼べば、「場所」とは、
「場」の実現した「場所」です。
これを<「場」所>と表記します。

私たちの<いのちの営み=身体>で言えば、<いのちの営み=身体>とは、
<いのちの営み=身体>を成り立たせる<働き>である<いのちの働き>
実現した
いのちの働きいのちの営み=身体と表現できる捉え方です。

このような人間存在ののあり方の哲学を、<「場」所>論と呼びます。

 

なんと、小難しく、理屈っぽくと思われるかもしれませんが、
そもそも清らかで優しい人間の在り方とは<「場」所>論的なのだと、
八木誠一先生は語っています。このような人間の働きが「愛」であり、
「統合化作用」であり「コミュニケーション作用」です。

人間が感じる<愛の感覚>とは、<統合感覚><コミュニケーション感覚>です。
つまり<いのちの働きのいのちのつまり営み=身体>の感覚であり、
<いのちの感覚>ということです。くどいようですが、<「場」所>論的感覚です。

ナイチンゲールが<コモンセンス>と述べた、看護の感覚でもあります。

 

私は、この感覚を磨くことが、いのちあるものに関わる仕事をする人間に
最も求められる事ではないかと思っています。

 

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『ゲシュタルトクライス 知覚と運動の人間学』

 ヴァイツゼッカー著 みすず書房 5600円

生命あるものを研究するには、生命と関わりあわねばならぬ。

と、この本は始まります。歯科衛生士も、単に歯垢や歯石を相手に仕事をするのではなく
いのちある患者さんとの仕事ですから、いのちと関わらなければなりません。

学問においては自分自身の生命を無視しようとする努力も可能かもしれぬ。
しかしそのような努力の中には自己欺瞞が隠されている。

私たちが仕事をする場合、
自分自身のいのちをどのように捉え、どのように生きるかを問うことがないのであれば、
患者さんのいのちを大切になどと言っても、そこでは自分で自分をごまかしていると
言うことです。
そう言われれば、そうです。
私たちが歯科衛生士になる勉強をした時のことを思い出してみてください。
「倫理」を学びましたが、自分自身の<いのち>について問われたことはなかった。
いえ、問われていたのかもしれませんが、気づかなかった。私は問いませんでした。
では、ヴァイツゼッカーの<生命>とは、どういうことでしょうか?

生命は生命あるものとしてわれわれの目の前にある。

どうも、<生命>というものがあるというのではなく、
命が宿ったものとして、ここに生きているとということのようです。

生命はどこかから出てくるものではなくて元来そこにあるものであり、
新たに開始されるものではなくてもともと始まっているものである。

生命それ自体は決して死なない。死ぬのはただ、個々の生きものだけである。

私たちが考える生命とは、誕生とともに始まり、死とともに消えていく
そんなものではないだろうか?
ここで言わんとする<生命>は、其れとは次元が違うようだ。
決して死なない、つまりなくなったりしないものを指している。
もともと、ここにあり、個々の生きもの生死を超えた<生命>、
言い換えれば、ヴァイツゼッカーの<生命>の働きによって、
個々の生き物が誕生し死んでいく。
ヴァイツゼッカーの語る<生命>は、
そもそも、始まることも終わることなく常に<いのちの働き>として世界にあり、
<身体を生み出し、生かし、死なせる>根拠として
捉えることができるのではないだろうか。

 

個体の死は、生命を区分し、更新する。
死ぬということは転化を可能にするという意味をもっている。
死は生の反対ではなくて、生殖および出生に対立するものである。
出生と死とはあたかも生命の表裏両面といった関係にあるのであって、
理論的に互に排除しあう反対命題ではない。
生命とは出生と死である Leben ist : Geburt unt Tod。
このような生命がわれわれの真のテーマとなる。

<「場」所論>的に言い換えると、ヴァイツゼッカーの語る<生命>は、
<場>であり、<場所>を成り立たせる根拠であり、
つまり、個々の<いのちの営み>を生み出し、維持し、死なせる働きが
<いのちの働き>ということ。ヴァイツゼッカーの語る<生命>です。

<いのちの働き>=ヴァイツゼッカーの<生命>=<場>

<いのちの営み>としての身体は、根拠としての<いのちの働き>によって
生かされていると
同時に、
<いのちの働き>は
<いのちの営み>の
内に働き、
<いのちの営み>としての身体の真の主体でもある。

私は、私を生み出したわけでもなく、なりたくもないのに
病んだり老いたりし、
ついには亡くなるように、
全くもって、意のままにならない。
それは、私のいのちの営み>が、私を超えた<いのちの働き>の
内にあるからだと言える所以でしょう。

ところで、私はクリスマスシーズンになりと『トムテ』という絵本を子どもたちによく読んだ。スウェーデンの農家や仕事場に住んでいる小人の物語りです。トムテは何百年も生き続け、その家の人が幸せになるように見守っているのです。
そのトムテが、人間を含めた命あるもの、そして命あるものが置かれた世界をみてこうつぶやくのです。「どこへ ながれて いくのだろう。みなもとは、どこだろう。」

このように感じる世界観は、<「場」所論>的であり、
このような身体が感じる感覚が、<「場」所>論的感覚>であり<統合感覚>・
<コミュニケーション感覚>・<愛の感覚>・<いのちの感覚>・<看護の感覚>
<コモンセンス>
でもあります。

 

ヴァイツゼッカーは、こう書いています。

生命に関するいかなる学問の始まりも、生命それ自体の始まりではない。
むしろ学問というものは、問うということの目覚めと共に、

生命のまっただなかで始まったものなのである。
したがって学問が生命から飛び出すありさまは、眠りからの目覚めに似ている。
だから、よく行われているように生命のない物質、つまりは死せるものを出発点とすること、
たとえば有機体の中に見出される化学的元素をいちいち数えあげたりすることを出発点にすることは間違っている。生命あるものは死せるものから発生するのではない。
生命なきもの、或は無機物を、死せるものと同一視することすら、
明確さを欠いたことである。なぜなら、そのような同一視は、
死せるものが生命あるものから生じるかのごとき感をいだかせるからである。

 

すべての学問の根底に据えられるべき、学問である気がします。
本来の宗教とは、このように人間存在の全体を
<いのちの働き>の<いのちの営み>を捉える
ことだった
のですが、
最近は変質している感じがします。
私自身もご利益宗教や、自我の働きを強化し本来の<いのちの働き>を無視した宗教に
心惹かれたことがあります。また、形式化した我が家の宗教的あり方に反発もしました。

9.11のような事件は、変質した宗教が、本来の宗教までも変質させてしまいかねませんね。

しかし、3.11のような経験が、私たちを本来の宗教に目覚めさせてくれます。
今は、<「場」所論>学問にとっては、目覚めのチャンスかもしれません。

 

 

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