青木新門『納棺夫日記』・いのちのバトンタッチ

岡崎先生から送られてきたCDに「いのちのバトンタッチ」があった。
『納棺夫日記』の著者、青木新門さんの講演である。
そのCDには、一枚の写真が添えられていた。それを見ながらCDを聞いた。

青木新門

生と死がしっかり一つとなってむすばれている

門さんは、元米国大統領専属カメラマン、ジョー・オダネル氏の写真展で出会った一枚の写真の前で動けなくなった。それが、この写真である。
この写真の下には、次のような言葉が添えられていた。

 この少年は弟の亡骸を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め、決して下を見ようともしなかった。ただ、ぎっと噛んだ下唇が心情を物語っていた。

 その様子が、新門さんの体験と重なり涙が止めどなく流れたとなったと語っている。新門さんは八歳のとき満州で終戦を迎え、母とはぐれ、死んだ妹の亡骸を難民収容所の仮の火葬場に置いてきたのだ。そんな新門さんに気づいたオダネル氏が、涙のわけを聞き、新門さんを抱き締めてくださったそうだ。<こちらも涙が・・・>

講演は『納棺夫日記』ができるまでの様子が、自身の生い立ちを含めて語られている。笑えるエピソードを盛り込みながら。そして最後は、死を排除して成り立つ現代社会のおかしさ、愚かしさについて語っている。酒鬼薔薇聖斗を生み出す社会の病理として。

 死を忌み嫌うことは、生そのものを失うことでもある。なぜなら、生と死はそもそも、いのちとして「一なるもの」なのであるから。その死は、身体の感覚で直接感じ取るものであり、決して科学的に学ぶものではないという。その死の圧倒的な働きが、人間の眠っている霊性を目覚めさせてくれるのではないかと感じた。ナイチンゲールは、これを聖霊が働くと語っている。>巷にあふれる、いかがわしげなスピリチュアリティーなどに手を出さずに、『納棺夫日記』を読んで欲しなと思う。
 さて、この『納棺夫日記』、ブログで以前(2011.3.11)紹介した「毒書会」で私が紹介した本でもあります。詩人の感覚を通して描かれた「いのちの営み」・・・死が詩人を生み出すのかもしれません。

納棺夫日記

納棺夫日記

 

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