「こころ」について

 脳科学が発達している。どのような場合に、脳のどの部分が、どのように活動するかというようなことはかなり明らかになっているようだ。しかし、脳細胞の活動が「こころ」を産出するという俗説は誤りである。脳細胞の活動は、外から観察する限り、あくまで神経細胞間の物理的・化学的反応であり、それが物理量でも化学手物質でもない「こころ」を直接に産出することはありえない。むろん、目に見えないこころが脳内で産出されるさまを外から直接見ることもできない。いつの日か、脳細胞の活動を観察して、この人はコーヒ-を飲みたいと思っている、というようなことが解るようになるかもしれないが、それはあくまで脳細胞の活動状況とこころの動きとの対応関係を事前に明らかにした上での「解読」作業であって、外から直接に「コーヒーが飲みたいという欲望」が目に見えるわけではないし、脳細胞がこころを産出する様が見えるわけでもない。換言すれば、脳細胞の活動を観察し、その物質代謝を検証する機械では、「こころ」のはたらきを直接計測するわけにはゆかない。

 こころは客観的観察に対しては存在しない。あるけれど見えないのではなく、単純に「ない」のである。「直接には観察も計測もされない」とはそういうことだ。しかしわれわれは、自分の「こころのはたらき」を感覚上・自覚上の事柄として知っているから、心が非現実だとは言わない。むしろ、これ以上に確実な現実的ないことを知っている。痛みに対するこころのもろもろの反応も、われわれにはこころの現実性として了解されている。痛みはまことに辛い現実であって、放っておいてもよい幻想ではない。だから、「指にささっている刺」は、当人の痛みという現実的な感覚の記号であり、逆に痛みは生体の異変の情報であり信号である。そもそも目(脳)は光(電磁波)を受けて、それを視覚へと変換するのであり、身体という場の中で、指(脳)は刺という物理的な刺激を受けて、それを痛覚へ変換する(ただし、どのようにしてなされるかは解っていない)。そして、同じ身体のなかで視覚と痛覚が、同じ場所から出た感覚同士として結びつくわけだ。しかい、感覚同士は再び外部感覚へと投影されるから、両者の間には変換関係が成立する。P103~P104

 そもそも感覚にしか現れない現実がある。美がそうだ。むろん音楽も同様で、音は感覚としてしか存在しない。音楽は客観的には空気の振動にしか過ぎない。検証可能な客観的事実だけが現実なら(これは論理実証主義の行き過ぎである)、作曲家も演奏家も聴衆も欺瞞の産物で、音楽ビジネスは詐欺だということになる。味覚についても全く同様である。

 感覚(自覚)が意味の情報だということは無視できない。たとえば、こころの働きは当人に感覚(自覚)されるものだが、その感覚は同時に「きよらか」あるいは「きたない」「とうとい」「いとわしい」などという感覚、つまり、こころの働きに対する全人格的反応(全人格に対する意味の情報)を含むものである。感覚は単に事実の情報ではなく、意味の情報だということは、宗教の領域での感覚の重要性を示している。P105~P106

八木誠一著『<はたらく神>の神学』岩波書店 2012年 

これを読んでいて大変興味深い<こころ>に関する文章にであったので抜粋してみました。

八木誠一

      八木誠一先生です。

 

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