メリークリスマス!

ちまたでは、11月から本来のクリスマスの意味にそぐわない
音楽やセールやイベントが、<単なる自我>をあおっているように感じます。

クリスマスの朝、師匠からメールが届きました。
皆さんとこのメールの内容が共有されると幸いです。

おはよう!
自己・自我の歴史的示現としてのイエスの誕生の物語は、
自己・自我としてのわたし(たち)の示現に対応するときにだけ
深い寂寥として有意味になるでしょう。
メリークリスマス!

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昔、<マリアの処女降誕>と<イエスの蘇り>の話しが、
キリスト教を受け入れる障害となっていました。
しかし、それは
心という内面の出来事を表す<表現言語>で書かれた物語を、
客観的事実を扱う科学等で使われる<記述言語>として読みとる
ことによって生じる誤解であると、師匠から教わりました。

宗教的知とは、主体の自覚の事柄であり、
宗教的認識とは主体の自覚に現れる神秘の言語による分節です。
それを言い表す言葉は、<記述言語>に属する<宗教言語>です。

「私は私だ」と、言葉を語る主体である<自我>は語る。
その自我が、「私は私だ」と語る<いのちの営み>は、
単に<いのちの営み>というのではなく
<いのちの働き>の<いのちの営み>だと自覚することが宗教だということです。
この、<いのちの働き>を古代人は<神の働き>と語ったのです。

<神の働き>は、私の中で働く<自己>であり、
キリスト教では<キリスト>と呼んでいます。

人間としてのイエスが神の子とは、
人間イエスの<いのちの営み>は、
<いのちの働き=神の働き>の実現としての<いのちの営み>であるという
自覚の表現であると言えるのだと思います。

イエス・キリストとは、自己・自我としてのイエスと言い換えることもできます。
これは、イエスだけに起こることではなく、人間誰にでも起こる可能性があります。

例えば、神は愛である(神と言われるいのちの働き=愛と呼ばれる働き)と言われてます。
人間が互いに愛し合うとき、その愛は自我の打算ではなく、自我を超える働き、
つまり、神と言われるいのちの働きと自覚されます。
それは、人間を超えた働きが人間に及ぶという意味で、神秘と表現することができます。


私の<いのちの営み>が、<いのちの働き=神の働き>によると自覚されたとき、
<いのちの働き=神の働き>が、私の<いのちの営み>の内の自己・自我>の示現。
これが、メリークリスマス!の意味でしょうか?!

患者さんや学生さんと共に、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだりする
その一瞬一瞬が、メリークリスマス!と言えそうですね。
ここ(看護&教育&ケア)以外の何処にメリークリスマス!があるというのだと、
ナイチンゲールは語っています。

ー言葉を使用する人のためにおすすめの、言葉の取扱説明書ー
八木誠一著『宗教と言語・宗教の言語』
日本基督教団出版局 1995年 3,500円

 

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