「直接経験」と「間接経験」

かいずか1

この写真を見て、人はどんな感想を持つのだろうか?

カイヅカイブキ(貝塚伊吹)という、木です。

なんの変哲もない木ですから、通りがかりに見ても特別な感情は湧かない。
日常生活では、存在が意識に登らないような木です。

ところが、あまりにも大きくなりすぎて、隣接する家にとっては迷惑な存在になってしまいました。家が日陰になる、樋が詰まる、毛虫が落ちてくる・・・・

定期的に剪定をすればよかったのでしょうが、手がつけられないほど成長したのです。
結局、切り倒すことになりました。
チェーンソを使わず、斧で伐ると息子が言いだしました。
私もそこに付きあったのです。

斧に打ち込まれた木は、芳しい香りを放ちました。
「こいつ、生きとる!」と息子。
なんか、かわいそうだね・・・・

かいずか3

痛々しさがこみあげてきました。

あー、思い出した。修士論文で書いた、言語論の文章を。

2章 ナイチンゲールにおける、宗教理解のための予備的考察

 第1節 宗教言語とは何か
  3)統合経験としての直接経験(自然本来の事実性)
   A)主―客―直接経験  P57~

 経験というとき、普通はすでに主客関係が前提されていて、主が客を経験することと解されている。このような「主―客関係」とは、言語によって設定された虚構/仮構である。つまり、日常経験としての「主―客関係」は、言語が介在した「間接経験」として成り立っているといえる。では、「直接経験」としての「主―客関係」とはどのようなことなのであろうか。次の蕪村の句は、その手掛かりとなると考えられる。

「斧入れて香りにおどろくや冬木立」

 この句は、裸木を倒そうとして斧を振り入れたとたん、その木から生々しい香りが立ちのぼってきた感慨を詠んだものである。その時、蕪村は同時に己の身にも斧が打ち込まれたような痛みを覚えたのではないだろうか。最初、蕪村から見ると、枯れて葉をすっかり落とした木は絶好の薪だったのかもしれない。その木は「薪」という言葉として、まさしく生活の枠組みのなかで言語化された木であった。すなわち、用在、例えば(使用価値)としての通念が読み込まれた木に他ならない。このような日常の言語経験においては、自然本来の木の<いのちの営み>に直接触れることができない。しかし、その当の木が<いのち>の香りをたたえ、蕪村に迫ってきた。すなわち、同じ木が全く違った様相を呈してきたということだ。このような、言語経験としての現実の枠を破るような出来事として、自然本来の<事実>としての木との直接の触れ合い(統合経験)が「主―客―直接経験」である。<言葉>を媒介にした虚構/仮構としての人間の現実経験(間接経験)ではなく、自然本来の<事実>としての「直接経験」である。この主―客の区別を超えた関係性から見ると、これまで自分は事実の木に出会っていると思っていた時でも、実はそれは言語化された「間接経験」としての現実であったと直覚的に気づくのである。

 この言語と自我の癒着が破れた「主―客―直接経験」における経験の主体は、「単なる自我」ではなく「自己・自我」(「自己―自我―直接経験」で後述する)である。従って、蕪村の句は一見すると日常経験的言語世界の事柄のように見えるが、そこにおいて日常的「間接経験」と「直接経験」とは、否定媒介的に二重性がある。また、それと共に日常的「間接経験」の主体としての「単なる自我」と、「直接経験」の主体である「自己・自我」にも、否定媒介的二重性が暗示されていることになる。つまり「主―客―直接経験」と「自己―自我―直接経験」は結合しているといえる。

 <言葉>の絶えた「直接経験」の現場を踏まえて再び言語化が起こるときは、それ以前と異なった言語化が可能になる。つまり、蕪村の句は虚構/仮構としての人間の日常の言葉が脱落し、日常が破れたところから発せられた<言葉>ということだ。ここで語られる<言葉>は「自覚表出言語」であるが、これについては「言語のジャンル」で説明する。そこから改めて考えてみれば、木がここに存在するとは、大地があり太陽があり、木が他の生物と関わり合ってきた生命の歴史があるということである。一本の木が存在するとは、まさに全宇宙があるということだ。そこには、既知の言語化を超えた無限性が現前している。つまり一本の木は全宇宙の神秘を示現し、われわれの中に神秘への感覚を呼び醒ます。言い換えれば、蕪村の木との出会いの「直接経験」(統合経験)は、「無限の神秘[1]」からの語りかけとそれへの応答なのである。

[1]
 
神秘には、科学と矛盾する神秘があるが、これは科学の進歩によって神秘ではなくなる。しかし、現実の全体性というような、我々の把握を超えたもの、「直接経験」に現われる現実は、科学(学一般)の進歩とは無関係に神秘として経験される。ナイチンゲールも、看護を含め人間の営みは、神の働きの宿る神秘として捉えている。しかし、『看護覚え書』で「看護については『神秘』などはまったく存在しない。」と述べている。これは、科学と矛盾するような神秘である。

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